塵芥

愛をもって行います

我々は恋愛という概念に踊らされている【目を覚まして!】

◯「恋愛」という簡単な言葉で片付けてはならない!

恋愛感情というものはそもそも、この世に独立して存在するものではない。わたしたちは度々、恋愛という簡単な言葉で一括りにし神聖化したり、また、恋人がいないことを嘆いたりする。そしてまるで恋人がいないことを可哀想で惨めであるといった捉え方をする風潮が見受けられる。しかし、この社会風潮はそもそもが間違いなのである。

こういった風潮古来からの人間の思考停止と、なんとかして自身の生物的側面を否定しようと試みる醜さの産物に過ぎないのだ。

 

◯自分はそもそも恋愛感情を抱かない(抱けない)のかもしれない……と思った話

私は数ヶ月間、男性1人(有り体にいえば彼氏)と同棲していた。そしてついにさまざまなことが我慢ならなくなり、半分逃げ出す形で同棲を解消した。その際に、私はこの人のことが好きなのだろうか、この人より中高以来の友人の方がどう逆立ちしても大切なのだがこれはおかしいのではないだろうか、など色々と思い悩んだ。

彼との関係について、要素だけをピックアップしていけば、確かに恋人同士だったのかもしれないがどうしても大きな違和感があったのだ。別れる直前に、彼にこの話を少ししたところ、「友達と恋人は根本的に違う」「自分だって友達の方が一緒にいて気楽である(くつろげる)」と言われた。その時はそれはそうだと思ったのだが、後から考えると、どうもしっくりとこない。

 

◯親友と友人の違いについて

そもそも、付き合おうと宣言したらいきなり恋人に昇格して、別れようと告げたらいきなり友人か「無」になることについて誰も疑問に思わないのだろうか…?

どこからどう考えてもおかしいというのは考えるまでもないだろう。

まず、前提として、人間関係というのはコミュニケーションの中で緩やかに構築されていくものである。そして、「恋人」などいうものは数多くの友人の中のVIP的存在に過ぎないのである。デジタル端末に登録している連絡先に星マークをつけるようなものだ。(実際、「恋人」の連絡先にも星マークをつけますしね)

 

したがって、この考えでいくと自らの一番親しい友人(同性、別性問わず)が「恋人」になり得るということが言える。しかし実際に自分の親友を思い浮かべてみると、その人のことを恋人と称することに何か違和感を覚える人が多いだろう。彼女(彼)は親友ではあるがあくまで「恋人」ではないし、私と付き合ってください!と宣言することも、今まで築き上げられてきた価値観が邪魔してか躊躇われる。

 

ここで親友と恋人の違いについて考えてみよう。

それらの大きな違いとして挙げられるのは、体の関係を持てるか否かではなかろうか。つまり、私たちの感情や欲求における、「生物」として温もりを感じたい部分と、「人間」として関係を築きたい部分は、全くの別物なのである。

だが、セックスや性欲は汚いものであるという我々の倫理観が邪魔して、生物的な欲求を「人間らしさ」の部分とごちゃ混ぜにしているのだ。そうして生まれた概念が「恋人」なのである。

たまたま上記2つの欲求の対象が同じであればそれはそれで大変めでたいことなのだが、そう上手くいくことは実際少ないだろう。(例:私(女性)には女性の親友がいるが、性的対象は男性である。女性から性的な目で見られる(過度なスキンシップ含む)と不快感を覚える)

つまり、まずは従来の「恋人」という概念を再定義する必要があるのだ。

 

◯セフレという概念について

セフレと聞くと道徳に反しているといったマイナスのイメージを持つ人が大半だろう。少なくとも以前の私はそうだった。しかしセックスという言葉を性行為ではなく性別という意味で捉えてみるのはどうだろうか。

私が「恋人」(私の場合は異性愛者なので男性)に求めるものをいくつか下にリストアップした。

・細縁のウェリントンと七三分けの似合いそうなエレガントな顔立ち(外面的特徴)

・程よく筋肉がついていて腕が筋肉でもちもちである(外面的特徴)

・スーツが似合う サイズはJIS規格でA帯の5か6だと良い(外面的特徴)

・世俗的なエンターテイメントにあまり興味がなく文化的である(内面的特徴)

ざっとこんなものである。いわゆる好みのタイプというものだ。私は外面的特徴についてが多くなったが、外面に興味ないという場合は何をして欲しいかといったものも好みのタイプとして挙げることができるだろう。

そして、このように列挙していった「好みのタイプ(理想像)」を満たす対象について、ヒトという生物として子孫を残すに足る優秀な個体であると表現することが可能だ。また、例えば「優しい人が良い」などというのは「責任を持って子育てをしてくれそうである」というように言い換えることができる。

つまり、「恋人」に求めるものとは案外生物的側面の強いものが多いのだ。

 

 

◯恋人という概念の否定

単刀直入に述べるが、無闇に恋人という言葉を多用することは、性行為にロマンスを持ち込もうとすることに変わりない

「恋人」を優先するか「友人」を優先するかで揉めるカップルが一定数いるが、愚の骨頂である。「恋人」は「友人」より格上であるという考えが一般的であるものの、そもそも「恋人」は「セフレ+友人」であるということを忘れてはならない。

あまりに恋人という概念の神聖化が浸透してしまった現代においてしばしばその価値観に翻弄されることがあるが、無理に「恋人」を作ろうとするとうまい具合に騙されてこちらが痛い目を見ることになる。(騙す側というのは往々にしてよき理解者の皮を被ってまずこちらの親友になることを試みてくる。「恋人」という概念について正しく理解していないと、親友と性的対象を混同してしまい、結果として「失恋」(信頼していた友人に突然裏切られる)や「失望」に終わる可能性が高くなる)

 

◯理想像について

これはあくまで私の理想に過ぎないのだが、共感する人も多かろうと思うので述べていく。

・性別に関係なく「親友」と人生のパートナーとして入籍(場合によっては3人以上でも可)

・互いにセックスフレンド(上述の定義)がいる

・子供が欲しいという希望があれば、どちらが引き取るかということや子育てについて同意の上で性行為をし子供をもうける。(妊娠中の女性の負担が大きくなってしまうため社会制度を充実させる)(子供を社会全体で育てるという認識の一般化)

実現するのはなかなか難しいとは思うが、新しい人間社会の形としてこういった仕組みも悪くないのではなかろうか。