日記 251029 卒業論文 パン
大変久しぶりのはてなブログ執筆ですね
気づけば最後に書いてから1年経っているらしい。時の流れというものは恐ろしいですね
春までに50万円貯めるということで毎日毎日アルバイター、コンビニのパンでストレス解消、アルバイター、コンビニのパン、コンビニのパン、アルバイターです。
こんなにアルバイターをしているのに、節制をしているのに、なぜかお金が貯まらない。
不思議です。
そりゃそうだ。
毎日パンを買い捲り上げ買い漁り買い散らかし、食っているから。
全ては実家の近くにファミリー・マートとローソン・ストアがあるのがいけない。
ローソンストアのパン、あまりにもおいしすぎる!
最近の私のお気に入りは・・・
マーガリン入りレーズンパン
はちみつ入り十六穀ロール
メロンパン
はちみつパンに関してはナチュラルローソンの商品のようで、なんとなく意識の高い感じがしてレジに持っていくのが少し恥ずかしい。
私が意識の低い低俗な人間だから、そんなことを思ってしまうのだろうか。
マーガリンの塊が入ったパンはその点、非常にレジに持って行きやすい。しかし、カロリーコスパ重視の豚さんが来たと思われているかもしれない。
いや、自分がコンビニバイトをしていた時、客について特に何も思ったことはないので……。しかし……
いいえ待ってください!?
私はコンビニの深夜バイト中に、レジに持ってこられた商品について失礼な憶測や考察をたくさんしていました!
スパムおにぎり2個とラーメンを持ってきた人に対しては、こういう食事をしているとそこまでデカくなれるのか・・・とか
アイチューンズカードとエナドリを持ってきた人に対しては、寝る間を惜しんでオタクゲームをするオタクだ・・・とか
私も毎日毎日同じ時間にローソンに行って同じパンを買っているので、パンおばさんだと思われているかもしれませんね。まあいいか、通り名があるのは少しかっこいい気もします。
それにしても、パンというものはあまりに美味しすぎませんか?
これが、イエスキリストの肉ということですか?(イエスキリストの肉を模したパンは発酵させていないのでソース煎餅です泣)
おそらく血糖値がドカ上がりして最高に気持ち良いんです。
パンに、エクスタシーを感じています。そしておにぎりと違ってしょっぱいものも甘いものもあって最高です。
ここ一年くらいに渡って、自分は甘いものが苦手だと思い込むことで甘味をできる限り避けていましたが、やっぱ、チョコレート、うますぎだろ!!
オイ!助けて!
しかし……!!!!
ニキビ大魔神なのと節約の観点から、やはりこれからはパンを我慢しようと思います。
それができたら苦労しないんですが、長男としての意地を見せる時がきました。
パンの誘惑よりも長男の方が強いということを知らしめてやります。
まずはコンビニに吸い込まれることをやめます。
1/23 読書感想文
現代アートの哲学 西村 清和
総評
全体的に読みやすい本だった。各章の終わりに問いが設けられていることでより理解を深めることができた気がする。
美学に関して何かしらの自分なりの考え(おそらく偏っているが)を持っていると自覚していたが、この本を読んで、「芸術」の成り立ちからその発展、受け取り方などについて新たな視点を得ることができた。これをきっかけに芸術に関する思索を深めたいと思った。
読書感想文
改めて「表現・芸術とはなにか」について考える機会を得た。
本書は芸術を単なる技術ではなく、その背後にある「精神性」や「作家の意図」によって評価すべきだと説いており、その視点には大いに共感できた。
私はもともと、「絵画は技術ではなく、精神性によって評価されるべきだ」という考えを持っている。技術的にどれほど優れていても、その絵に込められた意味や作家のメッセージがなければ、それは単なる技巧の産物でしかないと感じているからだ。
高校生の頃、美大進学を夢見て学園祭を訪れた際、この考えを強く意識する出来事に直面した。
展示されていた多くの作品は、入試のために塾で高度な技術を身につけた学生たちによるものだったが、その多くから作家自身の精神性や意図が十分に感じられず、高校生ながらにどこか「空虚さ」を覚えた。締め切り間際に急いで描かれたような粗雑な作品や、完成度は高いものの心を動かされない作品が多く並んでいたことに失望したのだ。この経験を通じて、「精神性が伴わない技術は芸術とは呼べない」という確信を抱くようになった。
本書でも触れられているように、芸術の本質とは「作家が作品を通じて何を表現し、観る者に何を問いかけたいのか」にある。この視点から見ると、学祭で目にした作品群は、技術的には優れていても、精神性の成熟が欠けていたのだろうと感じた。
一方で、本書を読むことで新たな気づきも得られた。本書では、芸術を完全に理解することは難しいとしつつも、観る側が作品に込められた作家の意図や背景を深く読み解こうとする努力が重要だと説いている。当時の自分は、その作品に失望する一方で、それらが生まれた背景や作家たちが目指していたものを深く考えようとはしていなかったのではないか、と反省する部分もある。
しかし、それでも「芸術の本質は精神性にあるべきだ」という主張は揺らがない。本書を通じて、技術と精神性が両輪となって初めて「真の芸術」と呼べるものが生まれるという確信を改めて抱いた。
また、本書を読む中で、自分が「現代アート」という枠組みに抱いていた違和感についても深く考えるきっかけとなった。
「現代アート」を隠れ蓑にした自己満足的な作品や、美術館に集まるミーハーな客たちにどうしても不快感を覚えてしまうのだ。たとえば、作者が「こうしておけばそれっぽく見えるだろう」と雑な態度で制作しているように感じたり(実際そうかどうかは分からないが)、そうした作品に対して「芸術を理解している自分」に酔いしれ、「アートを楽しむ高尚な人間」であることをアピールする目的でSNSに投稿する行動を目にすると嫌気が差してしまう。
もちろん、人間の欲望やキッチュさ自体は嫌いではない。しかし、それを隠して高尚なふりをする振る舞いにはどうしても気持ち悪さを感じる。本書ではこのような現象を「ハイ・キッチュ」と称していたように思うが、少なくとも自分が挙げた例はこの「ハイ・キッチュ」に分類できるのではないかと思う。
一方、自分は美少女イラストが好きで、これは「キッチュ」の典型だと言えるのかもしれない。しかしその魅力は、作者の下心や欲が隠されることなく、むしろ全開で表現されている点にある。この清々しさには好感が持て、「芸術」という仮面を被ったハイ・キッチュよりもよほどアートとしての価値があると感じる。
このように、作品が持つ精神性や姿勢の違いが、自分にとってその作品を「好き」と思えるかどうかの大きな分かれ道になっていると言えるのではなかろうか。
高校生 家出の時に書いたやつ
やっぱり頭おかしいのかもしれない
どこまでがウソでどこからが事実なのかあまりきちんと覚えていないが自分がこういうものを作っていたという事実がおぞましい
私は自由になった!見つからずに坂をのぼりきってそこで右に曲がってしまえば絶対に大丈夫だ。駅まで急ぎ足で向かって、さっさと電車に乗ってしまおう。私を乗せた電車が発車してしまえば、私がいないことに彼らが気付いたとしても、もう追われて連れ戻される心配はない。
夕方だというのに太陽は傾く気配もなく、じりじりと私を照らしつけてくる。日本の夏は蒸し暑いので苦手だ。私は暑い中をひたすら走る。走りながら前腿に手をあて、ポケットに財布が入っていることを確かめる。今、私は家出をしたところだ。もとはといえば言い訳の余地もないくらいに自分が悪いのだが、家にいることがすっかりつらくなってしまったのでお望みどおり親の前から姿を消すことにした。
家出をしようと思ったのはつい数時間前だ。普通に家を出て行こうとしたら止められるに違いないのでこっそりと、気付かれずに出ていくことが大事だ。金は天下の回り物、とも言うくらいだから財布は絶対に持っていくべきだ。私は犬のキャラクターがプリントされた小さなポーチ型の財布に、全財産と定期券を入れた。全財産などという仰々しい表現をしてしまったが、金額は5000円とちょっとだ。ポケットに財布をねじ込み、Tシャツの裾を引っ張って膨らんだポケットを隠す。
私はトイレに行くふりをして玄関のある階下に降りた。ポケットに忍ばせた財布に気づかれないように、財布の中で小銭が音をたてないように、しかし抜き足差し足だと怪しまれてしまうのであくまで自然なように。まるで自分がアクション映画だかスパイ映画だかの主人公にでもなったような感覚がして、気持ちが昂る。映画の主人公の私は、とんでもなく恐ろしい家主に気づかれないようにしつつ、館から脱出しなければならない!主人公は靴箱からスムーズに履けて歩きやすい靴を選び、静かに玄関ドアの鍵を開けて館から脱出する……。
私はこんなふうに家から“脱出”することに関してとても軽く考えていた。以前にも突然行方をくらませて家族をとんでもなく困らせたことが数回ある。彼らはそれを家出だと称したが、私に言わせればちょっとした放浪癖にすぎない。別にどこか遠くに行っているわけではなく、家から歩いていける範囲をほっつき歩いているだけなのだ。でも今回はちがう。定期券を使って都心に出れば新幹線に乗ってどこか遠くにいってしまうこともできる。なんにせよ当分家に帰るつもりはない。
これからどうするかは後でじっくり考えればいい。私が家から姿を眩ましたことに母が気づいて、娘のことを自転車で追おうなどと考えついてしまったら、たちまち連れ戻されてこっぴどく叱られるに違いない。電車に乗ってしまえばこっちのものだ。私はひたすら走る。財布以外に持ち物がないのでとても身軽だ。セミのジリジリという音の大合唱が耳にこびりつく。毎日通る駅までの道なのに、層が厚く決して鳴りやむことのないこの音を聞いていると、鬱蒼とした森の中を走っているような気持になる。緑道に計画的に植えら
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れた木々がすべて樹齢数千年の巨木かのように感じられる。その巨木がジリジリという音を出しながら風の通り道を遮る。どこまで続くか分からない樹海の中を私は一人で汗だくになりながら走る。さっきまで泣いていたせいで頬に涙がガビガビになったものがついていて、肌が突っ張る。
額ににじむ汗を手で拭い、呼吸を整えるために走るのをやめると、街灯に貼られた謎のシールが視界に入る。見たこともない芸能人……らしき女性の写真が印刷されていて、彼女は私に向かって微笑みかけてくる。すこし不気味だ。この写真の女性の顔に張り付けられている笑顔のことを誰かが「中身のない笑顔」だと言っていたがまったくその通りだ。最初は他人の笑顔に対してなんと失礼なことを言うものかと不快に思ったが、なるほど、この笑顔は空っぽな感じがして怖い。
ところで、私はいつも生活の中におもしろいエピソードを探している。何かの折に人に話して会話が盛り上がるようなエピソードを常に考えている。事実半分・想像半分である、などと言うとただの法螺吹きだと思われてしまいそうだ。私としては別に法螺吹きだと思われようが何だろうが一向に構わない。こうして“おもしろいエピソード”を考えることが生きがいの一つだと最近気が付いた。
生きていると、ここでこうしておけば良かったと考えることが多々ある。この、“ここで”と“こうして”は私たちが認識している分岐点なのだ。それは星の数ほどある分岐点のうちのたった一つにすぎない。分岐点で私たちは色々な道を選択することができる。現実的に可能かどうかはさておき、場合によっては、空を飛ぶルートで通学したので遅刻した、なんて分岐点もありだ。
場が盛り上がるような“おもしろいエピソード”において、自分以外の人が知っているはずの要素は事実である必要があるけれど、それさえ守られていれば現実に自分が選んだものと少し違う選択をした話をしても一向に構わないのだ。
私は、立ち止まって街灯に貼られたシールをまじまじと見た。白飛びするのではないかというくらい明るい笑顔をした女性の写真が印刷されている。彼女をまじまじと見つめて5秒経った頃だろうか。シールに印刷されているはずの彼女が、瞬きをした。私はびっくりして思わず後ずさった。何も見なかったことにしてその場を立ち去ろうかと思ったが、しかしもう一回さっきよりも近くでシールをまじまじと見つめた。複雑で気持ちの悪い模様やメロンの網目をつい指でなぞったり、眺めたりしてしまうのと同じような心理だと思う。私は女性がまた動く瞬間を見逃すわけにいかないので、目を見開き続ける。しかしいくら待ってもシールの女性は動かない。懸命に瞬きをこらえているに違いない。まるで女性と根性比べをしているようだ。彼女ももしかするとそう考えているかもしれない。先に瞬きをした方が負け、とでもいうのだろう。私は女性に負けたくなかったので、どんなに目が乾いて痛くなっても我慢し続けた。
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しかしとうとう瞬きしてしまった。シールの女性と私の間を大きなハチが通ったせいだ。人間というのは身の危険を感じると、本人の意思とは関係なく体が動いてしまうもののようだ。私はハチに驚いたときの動揺を忘れるように、身震いしてから再びシールの女性に向き直った。
「今回はあたしの勝ちね、また遊びにきてね。それよりあなた、急いでいるんじゃなかったの?」
大きな笑顔を張り付けたまま女性が私に話しかけてきた。口角を最大限上げたまま喋っているのでいまいち聞き取りにくい。そうだ、私は早いところ電車に乗ってしまおうと急いでいるのだった。
シールの女性と根性比べをしているときには感じなかった暑さが私を襲う。じわじわと体内の水分が汗になっているのが分かる。セミの声も一層騒がしくなったようだ。ふう、とため息を一つついてから私は再び走り出した。自転車の走る音が背後からするたびに後ろを振り返る。もしも私を追ってきた母だったらどうしようか、私はここで家に連れ戻されるわけにはいかないのだ。体中が心臓になってしまったかのように感じる。足先から頭のてっぺんまで、全身がドックンドックンと脈打っている。これがただ走っているからなのか、緊張しているからなのかは分からない。あるいはもしかすると、興奮しているからなのかもしれない。私はこれから先のことについてまったく悲観的になっていなかった。
自分は勢いで行動しがちだと分かっているつもりではいたが、まさかここまでとは思わなかった。そして、そんな私の性質は決して悪くないと思う。この坂をのぼりきれば駅は目と鼻の先だ。坂の途中にある公園ではたくさんの子供たちが遊んでいる。幸せそうで羨ましい限りだ。彼らの楽しそうな姿を見ていると、なんだか自分がみじめに思えてきた。たった5000円しか持たずに家出だなんて正気の沙汰じゃない。そもそも家出しようということ自体馬鹿げている。でも私がいなくなることで両親はきっとせいせいとするのだ、と自身の行動を正当化した。
地下鉄のホームにたどりついて、私はやっと一息ついた。きっと私は汗だくで真っ赤な顔をしているに違いない。ホームですれ違う人全員が私に注目しているように感じる。自分の存在がとても場違いなものだと言われているかのようで、居心地が悪い。そわそわしながら電車を待っていると、花柄のワンピースを着た厚化粧のおばさんと目が合った。まずい。直感的にそう感じて、私はすぐに目をそらした。いや、無賃乗車をしようとしているわけでもなければ、夜遅いなどと言うこともなく、何も「まずい」ことはないのだ。やましいことなど何一つない。しかし私はその見知らぬおばさんから逃げるように、ホームの反対の端に向かった。彼女は私が家出しているということに気付いてしまっただろうか。きっと気付いていたに違いない。
ホームの反対端に行ったところで、やはり気まずさは消えなかった。むしろ、このように人目を避けるような、逃げるような行為をしてしまったことに関して後悔した。まるで
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とてもやましいことをしているようだ。やましく思うなら最初から家出などしなければ良かった。しかし今更そう考えたところでどうにもならない。ここまで来てのこのこと家に帰るなど私には考えられなかった。
次の電車はあとどれくらい待ったら来るのだろうか。時の流れがとても遅く感じられ、ポケットから取り出した小さな財布のチャックを開け閉めすることによって気持ちを落ち着かせようとした。さっきホームの反対端で目が合ったおばさんが私を追ってこちらへ来ていたらどうしよう。心配になって1号車側を見ると、彼女は何事もなかったようにスマートフォンをいじっていた。
おばさんは私に見られていることに気が付くと、スマートフォンを鞄にすべりこませ、ものすごい勢いで走ってきた。私は逃げようと思ったが足がなぜかすくんでしまい、動けない。
「あなた、もしかして家出しようなんて考えているんじゃないでしょうね。家族が困るでしょ、はやく帰りなさい!自分勝手でうんざりするわ、家出しようだなんてまったく信じ難い」
あっという間に私のそばまで来た彼女は少し息を切らしながら、私のことを責めるようにまくしたてた。彼女から軽蔑はまったく感じなかったが、怒りがひしひしと伝わってきた。「家出じゃなくて、今から用事を済ませに行くところなんです。とても急を要する用事なので、財布だけ持って身一つで出てきてしまいましたが、ほんとうです」と私は言った。
あらかじめ準備しておいた返答だ。嘘をつくことに関して全く罪悪感はなかった。私はただ十全に整えたものをその通りになぞっただけだった。私は花柄の陽気なワンピースをまとった彼女に、とても深刻そうな顔をして見せた。
「あら、そう……。決めつけてしまってごめんなさいね」
「いえ、いいんです」
私の声に被せるように、駅構内にアナウンスが流れる。電車が来たおかげで私たちの間に流れたきまずい空気は少し解消された。私はどこか決めた行き先があるわけでもなく、どの号車に乗っても全く差し障りなかったのでまた乗り口をずらした。
電車の中は涼しく、私の興奮した心を冷気が包んだ。私は席の一番端に、できるだけ小さく、存在感を消すようにして座った。鞄を持っていないというだけで、車内でも自分がすごく目立っているように感じる。私は椅子にもたれ、他の乗客と目が合わないように目を閉じた。緊張しているのか、無意識のうちに閉じた瞼がピクピクと動く。
これから私はどこに向かおう。もう2度と家に帰ることはないのだから、うんと遠くに行ってしまいたい。先のことについて考えると虚しさに襲われ、いっそこのままどこかで命を絶って仕舞おうかという考えが脳裏をかすめた。過去に自分がしてしまったことに思いを馳せる。もうこの先「どうにもならない」と、とても深刻に考えた。
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自分の左隣に誰かが座る気配がして、私はさらに席の端のほうに身を寄せた。ひたすら誰にも注目されたくなかった。とりあえず終点についてから先のことを考えよう、そう思って私は眠ろうとした。
電車のガタンガタンという規則正しい音を聞いていると一切合切ぜんぶどうでもよく思えてくる。自分も電車という機械仕掛けの大きなものの一部になってしまったような感覚がする。電車と私において大きく違うのは、目的地があるかないかということだけだ。この際いのちの有無は問題にならないと思う。現に私はすっかり心が疲れ切ってしまって、ただ生命活動を行うシステムのようになってしまっていると自分で感じているからだ。
私は終点で駅から一度出た。特に目的もなく、なんとなく駅ビルに立ち寄る。みすぼらしく見えない程度にそれなりにきちんとした鞄が必要だ。貴重な5000円を鞄だけに使うわけにはいかないのでできるだけ安くすませたい。しかし、その条件を満たすものはなかなか見つからない。当たり前だと言ってしまえばそこまでだが、私にはどうしても鞄が必要だった。駅ビルの中を3周ほど歩き回ったころ、名案が浮かんだ。トートバッグなら安く手に入って、その上そこまでみすぼらしくない。
私は鞄を手に入れたことでようやく自信が持てた。これで私は人ごみの中で目立つことはなく、溶け込むことができると確信した。行き先はまったく思いつかない。ひとまずまた電車に乗り、定期券内のどこか適当な駅で降りよう。外は暑く、ずっと立っていると足も疲れてしまう。電車は私にとって格好な休憩室だった。
電車に揺られながら私は奇妙な夢を見た。
「あなたは悪魔を信じますか?悪魔と言っても、それはあなたが想像するようにおぞましいものではありません。それは
2020 アウシュヴィッツ博物館に行って
昔書いたやつ
アウシュヴィッツを訪れたという経験は、私に「何か」を与えてくれたと思う。アウシュヴィッツを訪れてから約一年経った今も、その「何か」が何なのか未だに明確に言い表すことができない。だが、あの地に行ったことやガイドの中谷さんのお話を聞いたことで、「このままではだめだ」と自分に対して強く思うようになった。自分を変える行動をなにか起こさねばならないと思った。
しかし、結局アウシュヴィッツを訪れてそのような思いを抱いてからこの文章を書いているたった今まで、私は結局何も変わらなかった。それは、どこか他力本願な部分があったり、「変わる」ということに対して掘り下げて考えず漠然としたイメージしかなかったりしたからだと思う。このことについては、最後のほうでまた書こうと思う。
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さて、ここからはアウシュヴィッツに訪れて感じたことを書いていきたいと思う。私はここにこうして感じたことを記しておくのはとても大事だと考えている。訪れた直後に書いたメモと、そこから約1年間この経験について考えたときに書いたメモ、そして何より自分の記憶を手掛かりに書いていく。
私はアウシュヴィッツに訪れる前、そこに行けばその当時の戦争の状況や悲惨さを実感し理解できると思っていた。この考えは、学校の修学旅行で広島に行ったときもまた、同じだった。そして、広島に行った時も今回も、これといってはっきりとした実感を得ることができなかった。けれども、もちろん、漠然としたものではあるが得たものがある。
「過去に戦争があったという事実」、「そこに強制収容所があってたくさんの人が苦しんだ」という事実に立ち会えた、という実感だ。
広島にしろ、アウシュヴィッツにしろ、あまり物々しい雰囲気の場所ではなかったのは
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予想外だった。しっかりと整備され、木が植わっていたり花が咲いていたりして、その地の名をきいて想像するような悲惨さや物々しさは全くなかった。体験談などの本を読んだほうが、当時の悲惨さを実感する、という目的の達成においては相応しいものなのではないか、とさえ考えた。
しかし、やはり「実際に自分の目で見る」ということは特別な経験だったと思う。現地を訪れて、過去の歴史と向き合う時間を持つ。そこに訪れるほかの人(とくにほかの国から来ている人)や、携わる人や、現地の今の姿を見る。そのプロセスを踏むと、「過去に遠いところで起きた自分には関係ない歴史」が「これから先を歩んでいく私の記憶」に変わると思う。これからきっと長い間歩んでいく中で、この記憶をたいせつに、同じ過ちを人間が繰り返すことのないよう、あるいは人々の意識が変わるよう行動出来たらと思う。
中谷さんがおっしゃっていた、「あなたの
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中にも差別があるかもしれない」という言葉がとても記憶に残っている。差別や偏見というのは誰の心の中にでもあり得るものだと思う。まずは、そのことを認め、「当たり前」とは違う価値観に遭遇した時にその違和感を大事にすることが重要だと思う。差別や偏見をなくすためには、その違和感を排除したり、見ないふりや無視をしたりするのではなく、違いを理解し認め合うことが大事なのだと気づかされた。
また、「感じてほしい」という言葉をしきりに使っていらっしゃったのも印象的だ。そのときは、あまり気に留めなかったけれど、今はこう思う。自分とあまり関係のない人の痛みを自分のことのように感じるのは難しい。世界の悲惨なニュースや各地で起こっている争いの話を聞いても、他人事だと思ってこんなにも無関心でいられる。しかし、無関心であるということはいつかまた争いを繰り返してしまう、起こしてしまう可能性をはらんで
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いると思う。アウシュヴィッツを見学している間、「ひどい」「かなしい」「どうしてこんなことを」というような単純な感想しか私にはなかったが、この単純な気持ちこそが実は大切なのではないだろうか。言葉としては単純なものだとしても、心からその歴史を悲しく思ったりすることで、「無関心」から脱却するのだ。「ひどい」と思った直感を思い出すことが、争いをやめることや、もう二度と繰り返さないために必要なのだと思う。
最後に、私のことについて、前述したように「その時の直感を思い出す」ということ(アウシュヴィッツのことに限らず日常のすべてにおいて)と、このままではだめだと思ったその気持ちを思い起こし、これから先の世界を担っていく人間のひとりとして責任を持った行動をとっていきたい。
会話ログ12月
12/?
○読書について
少なくとも今のところ、今後の人生においてなにかの専門家になるつもりは無い。そのため、本を読むのは知識そのものを身につけるためではなく、引き出しを増やすのが目的である。
・現代では分からないことがあればインターネットで簡単に調べることができる。なので知識を丸暗記することにそこまで重きを置かなくて良いような気がする。
丸暗記ではなく、そういえばこんなことがあった気がする…というような検索のきっかけを沢山作ることこそが重要である。そもそも引き出しがなければ検索ボックスに文字を入れることすら出来ないのだ。
今まで勉強らしい勉強をしたことはないがそれでも割と引き出しは多く持っている方だった。しかし最近段々と物足りなくなってきた…… 内容そのものを一言一句漏らさず習得するのではなく、引き出しを増設するための多読をしたい。
・残念ながら、一度読んだだけで自分のことばで説明できるレベルまで内容を消化できるほど私の頭のスペックは高くない。よって、1冊/10日間ではなく3冊/14日間のような読書ペースで類似した内容の本を読み、脳内での知識の結びつきを強めたり引き出しを開け閉めする練習をしたりする方が効果的なのかもしれない
12/15
○絵の色について
日本と海外では空の色が全く違う 当然、木々や街並みの色なども違う
根本的にまさしく空気の色が違うという印象を受けることが多く、帰国時には毎回かなり驚かされる
私たちは所謂大陸絵師と呼ばれる人々の絵を見て色使いに感心するが、おそらく彼らが見ている世界は日本人が見ている世界と随分色が違うのだろう
海外で描かれた絵を日本に持ってきて壁に掛けて鑑賞する際は多かれ少なかれ環境光の影響を受けるが、特にデジタルイラストにおいてはそういった外部の環境に発色が左右されることは無い(モニタの癖はまた別として……) つまり、彼らが見ている世界をほぼ直接・直感的に鑑賞することとなっているのではないか?
もしかすると、逆に、日本の伝統的なカラーを使用して絵を描くことで新たな表現が出来るかもしれない
💡 ̖́-あかねさんの十二単
○リミッターについて
どうも理性のリミッターが四六時中外れているらしい
良くも悪くも大層な裏表がなく、さすがにこれをやったらマズイだろうという所を毎度ヒョイと飛び越えてしまう
普通の人はアルコールの力を借りることでリミッターを外すようだが、我々に関して言えば、むしろアルコールを摂取していない時の方が元気、楽しい(呑むと眠くなってしまうため)
楽しさの上限が常時解放されていると同時に、ネガティブの下限もないため、常に振り幅が大変大きい
どうやら人間とかいう生き物は毒を摂取しないと楽しくなれないらしいねえ やはり、人の皮を被った怪獣だったようだ……
○夏コミについて
申込をする時点でほぼ中身が完成しているようにするというような心持ちでいたい
・あかねさんと合同で?
・擬人化イラスト本?:お気に入りの子だけ立ち絵やら設定画やらも詰めて探索者まとめ本みたいな感じで
・テーマカラーを決める?:見栄え◎
・「深みを覗く」をテーマに?:
既に人生1/4を終えたようだ。終わりを意識して苦しくなった
人生や人間関係において、別れや終わりを意識してそれに向き合うことは当然つらいことである。しかし、来る終わりの日に傷つく覚悟ができていてこそ、本気で人を好きになったり、人生をたのしむことが出来ると考える。私は現実から目を背けてはならないとして常に先のことを考え、終わりへの恐怖と覚悟を再確認しながら生きているが、あまりこれをやりすぎると病気になる……
💡 ̖́-SANチェック、何かに取り憑かれて自我を喪失する(山登りや遺跡調査、ゲ謎の叔父さん?関係性がちょっと分からないが閉じ込められていた男の人、占い、) 基本暗めのトーン、井戸、泉 最後のページだけ明るくしたい?など カトマンズ
12/17
○プライドについて
美大に行くのを親に止められた理由のひとつに、がめつさがないからというものがある。その時は反論したが、たしかに私は自分の目的のためにそこまで割り切れるかと言うと無理だと思う
実際に誰が〜という話でこの話題になったかは伏せるが、絵を仕事にして成功を収めている人間、とにかく性格が悪い 性格が悪いと言うより、どぎつい
クリエイティブな業界というのはそうでもしないと上手くやっていけないのだろう(少し違うが広告業界も然りである) また、組織に属してマニュアル通りに押し売りをするなら出来ないこともないが自分を商材にして自分を売り込むということは、裸で敵地に突っ込んで行くようなものであり、当然傷つくことも多いだろう…… 💡 ̖́-他者に責任を委ねることについて
いわゆるお嬢さま育ちの私はたしかに正直そこまでプライドをすてて「本気」で立ち向かったり頑張ったりすることは出来ないと思う。一種の泥臭さというか、実際にまわりで泥にまみれながらがむしゃらに頑張っている人を見ると、結構びっくりしてしまう(決してバカにしている訳では無い、ただ、自分にはできないと感じる)
○カラーサークルのいじり方について
いくら色を意識して変えてみても、パッと見た時に私の絵だ!と色で分かるのはなぜだろうねという話
どこかエスニックな雰囲気があるらしい
なるほど、そういえば実家は母の趣味で、南仏のカラフルな側面の色味とアジアンテイストな色味で壁や雑貨が揃えられていたなと思い出した。やはり普段の生活で目にしている色は絵に反映されるのだろう(昨日の話のように)
また、今日はレイヤーモードの使用を禁止して自力で色塗りをするという題目を立てて絵を描いていたが、色のいじり方にとてもくせがあるということに気づいた
12/21
ステロイドを塗るとすぐに肌の傷が良くなって大変快適だが、しかし塗り続けると色素沈着するし毛が濃くなるしでどうしても勝手に使用をやめてしまいがちである。
ステロイドを塗ると毛が濃くなるということは……!?ハゲの人は頭にステロイドをたくさん塗れば良いのでは!?
そういえば1番強いステロイドの名前はヴォルデモートみたいな名前だったな ステロイドを頭に塗ってもやはりハゲは治らないのかもしれない。
💡 ̖́-デルモベート
○キャラに対する能動と受動
絵の構図
私は基本的に清楚で俺のことが好きなキャラクターを好みがちである。簡単に言うと斜め後ろを着いてくるようなキャラクターだ。キャラクターに対する発言も、○○したい、というものが多い。また、絵の構図に関して苦しむことが多いが、どうもキャラクター▶︎自分の矢印で何かして欲しいという欲求がないのが原因ではないかと分かった
一方であかねさんは私とは真逆で、○○したい、と思うことはほぼ無いようだ。言われてみればツイートも○○してくれ〜!○○して欲しい〜!という物が多いように思える。そしてどうやら、絵の構図に関して困ることも無いようである
12/26
○四柱推命
占いは都合のよい部分だけ信じるタイプだ。
四柱推命の占いは非常によく当たっているように感じる。多かれ少なかれ人が持っているであろう要素を当たり障りなく適当に言っているだけでしょ〜など斜に構えてもみた。しかしどうしてもただのヤブだとは考え難い
特に互いの性質や自分たちの関係性について毎晩毎晩語り明かしているあかねさんに関して、自分たちで導き出した答えと全くの同文が書かれておりたまげた
(歩調は合わないが居心地が良い、空気のよう)(私:少しエキセントリックな程のキャラクターや考え方、本当はポンコツなのに何故か完璧超人に見られがち)(あかねさん:「自分の世界」を強く持っている、いるだけで場が和む・助けてあげたくなる)など
生年月日などだけで人の性質が分かるというのは一見バカバカしいようにも感じなくもないが、占い、興味深すぎる……
○自分と会話する
あかねさんとは世界の認識の仕方がまるきり違うということが分かった。
常日頃から、全てが真逆であるという話はしているので割愛する
あかねさんと会話をしていると話題に事欠かず、また、考え方や趣味嗜好などが真逆であるにも関わらず全く気を使うことがない。そして、毎晩6時間程度通話をしているが飽きることもない。
自省する際にはしばしば自分の考えを打ち消すように真逆の思考をもって考えることが多いが、あかねさんと会話をすることはその自省という行為に他ならないのではないかという気づきを得た。
正直我々は他人に対して強く深く興味を持つことは無いというのが私の持論であり、人と関わることは相手という鏡を通して自分を知ることに他ならないと考えている。
その中でも特に、あかねさんとの会話はまさしくもうひとりの自分との会話であり、自分の気づいていなかった側面について発見を得ることが多い。いつも新鮮で楽しい
読書感想文12/10
はてなブログ、2021くらいからちまちまやっているらしい。内容がおかしすぎるため記事のほとんどを非公開設定に変更したが、下書き含めて40件以上あるらしい。ゴチャゴチャ色々考えて文章を書くことは楽しいね
読んだ本、おすすめしてもらった本の読書感想文をここにまとめようと思う ノートでつけているがいかんせん字が汚く……
言語と行為 オースティン
○総評
とにかく読むのに苦労した
訳者解説を読んで、自分が読むのに苦労したのは決して自分が活字離れ頭すっからかんのゼット世代(いいすぎ)だからでは無いと分かって少し安心した
内容は半分弱読んだあたりから尻上がりに面白くなり、解説に肖像の載っているあの彼の講義をまさしく自分も受講しているかのような感覚があった
○読書感想文🎶
以前から抱いていた、「人間関係を名前で定義することについての疑問」について考える糸口がつかめた気がする。
私が抱いていたこの疑問に関して、私自身の、人間関係の複雑さへの理解が疑問の原点となっていたのかもしれないという気づきを得た。
そしてそれだけでなく、本書を通じて、私のこの疑問に新たな視点が加わった。
言葉とは単に関係を定義するという役割に留まらず、その関係を現実のものとし、言葉を交わした二人のあいだに理解の共有をうみだす役割を果たしている、という視点だ。
私の持論では、他人と交際をスタートする際にわざわざ「付き合ってください」と宣言をし、2人の関係性に名前をつけることはナンセンスだと考えていた。(非公開にしてしまったが、「我々は恋愛という概念に踊らされている。目をさまして!」の記事に嫌というほど書いたし大学の入口で啓蒙活動をしようとすらしていた)
なぜなら、人間関係というのは関係性に名前をつけて宣言することの出来るような単純なものではなく、グラデーション的なものであると捉え、そこに重きを置いて考えているからだ。そして、この考えに伴った私の中の常識として、「付き合ってください」という発話はただの関係性の確認と名付けにしか過ぎないと思っていた。
ところが、「付き合ってください」という発話について、単なる情報伝達でなく、それ自体が特定の行為を実行する言楽であると捉えるとすると、私の持論はいささか乱暴すぎたのではないかという思考に至る。
例えばこの場合だと、この発話を通して我々は関係の認識とコミットメントの2つの行為をすることとなる。
曖昧な関係が明確に定義され、互いの期待や役割がよりはっきりとさせられる。また、そして、単に交際の開始を意味するだけでなく将来の行動や合意に対する合意を含む、と言った具合だ。
ただ、私がこの場合のように言葉を常に額面通りに捉え、その遂行的な側面をまったくもって無視して生きてきたかというと断じてそんなことはないと言えよう。恋愛や「付き合う」という言葉を使用するような場面があまりに自分の日常から遠すぎたせいでこのような極端な持論に至ってしまったが、私は常に本書で述べられている「遂行的発話」がもつリスクを理解し、また、適切に言葉を使用しようと心がけている。
分かりやすい例がいくつかある。
例えば私のメールの文面はとてもかたく、時によっては相手に軽い威圧感すら与えてしまうようだ。これは私が正確な表現を使うことで誤解を防ぎ、意図を正しく伝えようとするために起こってしまうと考えている。本書の言葉を借りるならば、命題的発話と遂行的発話の混同を回避していると言える。
そもそも私は冗長な表現をあまり好まない。
話が脱線するが、私は文章においても絵においてもモーツァルト的な感覚のものを大変好んでいる。私が考える「モーツァルト的」とは、余計なものが一切削ぎ落とされていてパッと見単調でつまらなく見えるが、そこにこそ芸術としての真髄があるというようなものだ。15年間ピアノを習ってきた中で、小学生の頃はモーツァルトの曲を単調でつまらなく、むしろダサいとすら感じていた。しかし年を追うごとにに、必要最低限の音で表現することの難しさとその美しさへの発見を重ねることとなった。
このような背景があって、実際にそうできているかはさておき、文章においてもなるべく的確で短い表現への置き換えを試みるようになったのだ。ただし、全て短くすれば良いと言うわけではなく、ある意味女性らしく柔らかい表現(グリッサンドのような装飾)や語感や読みやすさも重視されなくてはならない。
話は戻るが、本書のフレームワークを適用できる私の日常的なコミュニケーションの例として他に、度々自分の発言を打ち消すような余計な一言を添えてしまうことが挙げられる。
この背景には、遂行的発話がもたらすリスクへの理解があると言える気がする。そのためしばしばしてしまう保身的な発言について、また保身に走ってしまった…などの自己嫌悪に陥らず、むしろ自分は言葉が現実に与える力について深く理解しているのだと褒めてやっても良いのかもしれない。
⚠️思いつくままに書いていたせいで読書感想文としての着地点をすっかり失ってしまった‼️
私は常日頃から言葉というものが大好きで、一日中あらゆる言葉をこねくり回して遊んでいるのでこの本は非常に興味深い1冊だった
ヴィトゲンシュタインの著書も積ん読リストに追加
・自分の全く知らないジャンルや概念の本を読むことで自己理解が深まってたのしい
・このフレームワークを使うことで自分のコミュニケーションスタイルや注意深さの背景について説明することができそう
・自分がめちゃくちゃ頭を抱えていた命題についての答えも降ってきた
我々は恋愛という概念に踊らされている【目を覚まして!】
◯「恋愛」という簡単な言葉で片付けてはならない!
恋愛感情というものはそもそも、この世に独立して存在するものではない。わたしたちは度々、恋愛という簡単な言葉で一括りにし神聖化したり、また、恋人がいないことを嘆いたりする。そしてまるで恋人がいないことを可哀想で惨めであるといった捉え方をする風潮が見受けられる。しかし、この社会風潮はそもそもが間違いなのである。
こういった風潮古来からの人間の思考停止と、なんとかして自身の生物的側面を否定しようと試みる醜さの産物に過ぎないのだ。
◯自分はそもそも恋愛感情を抱かない(抱けない)のかもしれない……と思った話
私は数ヶ月間、男性1人(有り体にいえば彼氏)と同棲していた。そしてついにさまざまなことが我慢ならなくなり、半分逃げ出す形で同棲を解消した。その際に、私はこの人のことが好きなのだろうか、この人より中高以来の友人の方がどう逆立ちしても大切なのだがこれはおかしいのではないだろうか、など色々と思い悩んだ。
彼との関係について、要素だけをピックアップしていけば、確かに恋人同士だったのかもしれないがどうしても大きな違和感があったのだ。別れる直前に、彼にこの話を少ししたところ、「友達と恋人は根本的に違う」「自分だって友達の方が一緒にいて気楽である(くつろげる)」と言われた。その時はそれはそうだと思ったのだが、後から考えると、どうもしっくりとこない。
◯親友と友人の違いについて
そもそも、付き合おうと宣言したらいきなり恋人に昇格して、別れようと告げたらいきなり友人か「無」になることについて誰も疑問に思わないのだろうか…?
どこからどう考えてもおかしいというのは考えるまでもないだろう。
まず、前提として、人間関係というのはコミュニケーションの中で緩やかに構築されていくものである。そして、「恋人」などいうものは数多くの友人の中のVIP的存在に過ぎないのである。デジタル端末に登録している連絡先に星マークをつけるようなものだ。(実際、「恋人」の連絡先にも星マークをつけますしね)
したがって、この考えでいくと自らの一番親しい友人(同性、別性問わず)が「恋人」になり得るということが言える。しかし実際に自分の親友を思い浮かべてみると、その人のことを恋人と称することに何か違和感を覚える人が多いだろう。彼女(彼)は親友ではあるがあくまで「恋人」ではないし、私と付き合ってください!と宣言することも、今まで築き上げられてきた価値観が邪魔してか躊躇われる。
ここで親友と恋人の違いについて考えてみよう。
それらの大きな違いとして挙げられるのは、体の関係を持てるか否かではなかろうか。つまり、私たちの感情や欲求における、「生物」として温もりを感じたい部分と、「人間」として関係を築きたい部分は、全くの別物なのである。
だが、セックスや性欲は汚いものであるという我々の倫理観が邪魔して、生物的な欲求を「人間らしさ」の部分とごちゃ混ぜにしているのだ。そうして生まれた概念が「恋人」なのである。
たまたま上記2つの欲求の対象が同じであればそれはそれで大変めでたいことなのだが、そう上手くいくことは実際少ないだろう。(例:私(女性)には女性の親友がいるが、性的対象は男性である。女性から性的な目で見られる(過度なスキンシップ含む)と不快感を覚える)
つまり、まずは従来の「恋人」という概念を再定義する必要があるのだ。
◯セフレという概念について
セフレと聞くと道徳に反しているといったマイナスのイメージを持つ人が大半だろう。少なくとも以前の私はそうだった。しかしセックスという言葉を性行為ではなく性別という意味で捉えてみるのはどうだろうか。
私が「恋人」(私の場合は異性愛者なので男性)に求めるものをいくつか下にリストアップした。
・細縁のウェリントンと七三分けの似合いそうなエレガントな顔立ち(外面的特徴)
・程よく筋肉がついていて腕が筋肉でもちもちである(外面的特徴)
・スーツが似合う (外面的特徴)
・世俗的なエンターテイメントにあまり興味がなく文化的である(内面的特徴)
ざっとこんなものである。いわゆる好みのタイプというものだ。私は外面的特徴についてが多くなったが、外面に興味ないという場合は何をして欲しいかといったものも好みのタイプとして挙げることができるだろう。
そして、このように列挙していった「好みのタイプ(理想像)」を満たす対象について、ヒトという生物として子孫を残すに足る優秀な個体であると表現することが可能だ。また、例えば「優しい人が良い」などというのは「責任を持って子育てをしてくれそうである」というように言い換えることができる。
つまり、「恋人」に求めるものとは案外生物的側面の強いものが多いのだ。
◯恋人という概念の否定
単刀直入に述べるが、無闇に恋人という言葉を多用することは、性行為にロマンスを持ち込もうとすることに変わりない。
「恋人」を優先するか「友人」を優先するかで揉めるカップルが一定数いるが、愚の骨頂である。「恋人」は「友人」より格上であるという考えが一般的であるものの、そもそも「恋人」は「セフレ+友人」であるということを忘れてはならない。
あまりに恋人という概念の神聖化が浸透してしまった現代においてしばしばその価値観に翻弄されることがあるが、無理に「恋人」を作ろうとするとうまい具合に騙されてこちらが痛い目を見ることになる。(騙す側というのは往々にしてよき理解者の皮を被ってまずこちらの親友になることを試みてくる。「恋人」という概念について正しく理解していないと、親友と性的対象を混同してしまい、結果として「失恋」(信頼していた友人に突然裏切られる)や失望に終わる可能性が高くなる)
◯理想像について
これはあくまで私の理想に過ぎないのだが、共感する人も多かろうと思うので述べていく。
・性別に関係なく「親友」と人生のパートナーとして入籍(場合によっては3人以上でも可)
・互いにセックスフレンド(上述の定義)がいる
・子供が欲しいという希望があれば、どちらが引き取るかということや子育てについて同意の上で性行為をし子供をもうける。(妊娠中の女性の負担が大きくなってしまうため社会制度を充実させる)(子供を社会全体で育てるという認識の一般化)
実現するのはなかなか難しいとは思うが、新しい人間社会の形としてこういった仕組みも悪くないのではなかろうか。